とりあえず、ここから

気がついたらオーストラリアで働いていました。人生何が起こるか本当に分かりません。

英語の抽象度とイメージ共有

英語の言語としての抽象度合いに関して最近色々と意識をすることが多くなりました。

英語圏の人が利用している日常的な言葉を本当に正しく理解しているのだろうか?という、ふとした疑問から考えていった時、この抽象度合いというキーワードが頭の中に残りました。

日常会話では日本の中学英語力しか必要としかない、といった話を聞いた事があります。これは、あながち間違いでは無く、多民族国家であるオーストラリアのような国に住んでいると様々な人種が色々な形の英語を利用しているため、そのコミュニケーション手段である英語は比較的シンプルであり利用されている単語も少なめになっている様な気がします。

ただこの国ではそのため語彙の広さと適切さがその人自身の洗練さや評価に繋がり易いのではないかと感じています。

その中で、一つ気が付いたポイントとして、英語と言語ルーツが大変近い人たちの、英語のナチュラルさです。それは同じ様に全体的にシンプルな物が多いのですが、完全に質が違います。言葉の選択が大変自然なのです。その部分で、明らかに抜きんでています。

これは各単語の持っている抽象度合いとイメージできる背景がお互い大変近い為であると私は考えています。

具体的に言うとHappyやGoalなどの抽象的な単語に対するイメージ出来る範囲(深さや広さ)が英語圏の人と大変近い為だからと思うのです。また、その様な単語一つ一つの深さは日本語とは比較できないぐらい深いのでは、と。この感覚は私達日本人が情緒などに触れる象徴的な言葉を聞いた時に感じるイメージの強さに近いと推測しています。例えば、日本人が「桜」という言葉を聞いただけで、そのイメージの連想によって、人によっては涙してしまう様な程強い感覚です。

英語圏以外の言語圏の人たち(日本人も含めて)はその感覚を日常会話や読書などのインプット、アウトプットを通して、研ぎ澄ましていくのですが、1.英語という言語に母国語がどれだけ近いかという事と、2.どれだけ抽象的な事柄(いわゆる塩梅)を捉える事に長けているかという事にその人がどれだけ早く英語を学ぶことができるかのポイントがあると考えています。

残念ながら1のポイントに関して言うと日本語は言語的な側面から大変英語から遠いと感じます。この点で日本人が英語をマスター(何をもってマスターというかは色々な解釈がありますが)することは他言語の人達と比べて大変な努力、労力を必要とします。これは英語圏の方からも同じ様な意見を頂いている為ほぼ間違い無い所だと思います。

ただ2に関しては完全に自分の見てきた範囲内の事象に対する仮説です。第一言語が何なのかを問わず抽象的な考えを自分の言語で上手く表現できる人は英語をものにできる様になるのが早いと思います。それは多分抽象的な事柄に対するイメージをコントロールする事に長けている為、英語の各単語の持っているイメージの範囲を正確に捉える事が早い為だからと考えています。

事実、大学で教えているような高尚な英語力を持っている日本人の方やグローバルで活躍されている方の日本語での抽象的な事柄に対する表現力の高さには圧倒させられますし、また日本語を話される英語圏の方々の日本語における表現力の高さに感心させられる事もしばしば。

基本的に言語の音域の範囲のおいて日本語は使用周波数の幅の狭さから圧倒的に不利なため、そこら辺を鍛え易くする為に英語を学び始めるのは早いほうが良いという事はもろ手を挙げて賛成です。

しかし、その部分を除けば、もしかしたら英語というものに拘らず、母国語をトコトン突き詰めたほうが、ある意味言語に対するアプローチとして近道なのかもしれないと実は最近感じているのです。