とりあえず、ここから

気がついたらオーストラリアで働いていました。人生何が起こるか本当に分かりません。

見えている景色の違い

先日友人と話をしていて、同じ物を見ていても人によって本当に認識している度合いが違うのだと痛感させられた事がありました。

 

僕は気づきという言うものは、以下の二つによって構成されていて度合で図ることが出来ると考えています。

 

1.認知の質と度合い

2.認識の質と度合い

 

正直2に関しては保持している情報・知識との脳内での結びつき作業ですので、読書などの知識量を増やすことで広げたり、上達させることが可能なのですが、1に関しては、より素養的な部分が多いと思っています。

上記の両方の能力が高い人達(特に1の能力が高い方々)に出会うと、本当に嬉しくなります。それは、僕に一番欠けていて欲している能力だからです。

先日ポアンカレ予想の数学者の本を読む機会がありました。天才であるはずの彼らだからこその悩みがあり、僕では理解が出来ない事だらけだったのですが、分かった事というのは、彼らの見えている景色は同じものを見ていても、違うということでした。

気が付くことに対する喜びと同時に、気が付きたくないことも気が付いてしまう辛さがあるのでしょう。

多分、見えている人たちからすると、見えていない人たちに存在するという事を伝える事は本当に難しいのだろうのでしょうね。

出来るものなら、その高見を一度垣間見たいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

英語の抽象度とイメージ共有

英語の言語としての抽象度合いに関して最近色々と意識をすることが多くなりました。

英語圏の人が利用している日常的な言葉を本当に正しく理解しているのだろうか?という、ふとした疑問から考えていった時、この抽象度合いというキーワードが頭の中に残りました。

日常会話では日本の中学英語力しか必要としかない、といった話を聞いた事があります。これは、あながち間違いでは無く、多民族国家であるオーストラリアのような国に住んでいると様々な人種が色々な形の英語を利用しているため、そのコミュニケーション手段である英語は比較的シンプルであり利用されている単語も少なめになっている様な気がします。

ただこの国ではそのため語彙の広さと適切さがその人自身の洗練さや評価に繋がり易いのではないかと感じています。

その中で、一つ気が付いたポイントとして、英語と言語ルーツが大変近い人たちの、英語のナチュラルさです。それは同じ様に全体的にシンプルな物が多いのですが、完全に質が違います。言葉の選択が大変自然なのです。その部分で、明らかに抜きんでています。

これは各単語の持っている抽象度合いとイメージできる背景がお互い大変近い為であると私は考えています。

具体的に言うとHappyやGoalなどの抽象的な単語に対するイメージ出来る範囲(深さや広さ)が英語圏の人と大変近い為だからと思うのです。また、その様な単語一つ一つの深さは日本語とは比較できないぐらい深いのでは、と。この感覚は私達日本人が情緒などに触れる象徴的な言葉を聞いた時に感じるイメージの強さに近いと推測しています。例えば、日本人が「桜」という言葉を聞いただけで、そのイメージの連想によって、人によっては涙してしまう様な程強い感覚です。

英語圏以外の言語圏の人たち(日本人も含めて)はその感覚を日常会話や読書などのインプット、アウトプットを通して、研ぎ澄ましていくのですが、1.英語という言語に母国語がどれだけ近いかという事と、2.どれだけ抽象的な事柄(いわゆる塩梅)を捉える事に長けているかという事にその人がどれだけ早く英語を学ぶことができるかのポイントがあると考えています。

残念ながら1のポイントに関して言うと日本語は言語的な側面から大変英語から遠いと感じます。この点で日本人が英語をマスター(何をもってマスターというかは色々な解釈がありますが)することは他言語の人達と比べて大変な努力、労力を必要とします。これは英語圏の方からも同じ様な意見を頂いている為ほぼ間違い無い所だと思います。

ただ2に関しては完全に自分の見てきた範囲内の事象に対する仮説です。第一言語が何なのかを問わず抽象的な考えを自分の言語で上手く表現できる人は英語をものにできる様になるのが早いと思います。それは多分抽象的な事柄に対するイメージをコントロールする事に長けている為、英語の各単語の持っているイメージの範囲を正確に捉える事が早い為だからと考えています。

事実、大学で教えているような高尚な英語力を持っている日本人の方やグローバルで活躍されている方の日本語での抽象的な事柄に対する表現力の高さには圧倒させられますし、また日本語を話される英語圏の方々の日本語における表現力の高さに感心させられる事もしばしば。

基本的に言語の音域の範囲のおいて日本語は使用周波数の幅の狭さから圧倒的に不利なため、そこら辺を鍛え易くする為に英語を学び始めるのは早いほうが良いという事はもろ手を挙げて賛成です。

しかし、その部分を除けば、もしかしたら英語というものに拘らず、母国語をトコトン突き詰めたほうが、ある意味言語に対するアプローチとして近道なのかもしれないと実は最近感じているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

英語キーボード

英語キーボードが選択出来るノートPCが本当に少なくなりました。

これは多分海外で転売されないようにするための日本メーカーの戦略だと思いますが、昔から英語キーボードで来ている私には選択肢が少なく本当に不便なのです。

最近各メーカーから魅力的なモデルがでているにもかかわらず、日本での購入に踏み切れないのは主に是が原因。

と思ったらソニーから分社化したVaio株式会社からVaio Zシリーズがカスタマイズで英語キーボードに対応したようですね。

今度日本に帰ったら実機を見てこようかな。

 

 

ボイストレーニングの英語に対する効果

最近リップロールというボイストレーニングでの練習方法の一つを知りました。

単に唇を震わせる事で口の筋肉だけではなく、声帯周りの筋肉のリラックス行う事が出来る練習ですが、効果が高く驚いています。

実際に練習を始めてから、英語の疎通が大変良くなったような気がします。

効果は様々有りましたが、具体的にこの口運動による効果は以下の様なものでした。

1.高音域から低音域まで安定して発音出来るようになり、英語の疎通力が向上した。

2.結果、コミュニケーション力が高まった。

3.リラックス効果により、メンタル的に楽になり常に前向きになった。

4.頭がクリアになり、考えを整理しやすくなった。

 

特に1、2に対する効果はもの凄く、本当に目から鱗でした。

 

日本語と違い、英語を使うときは大変緊張しているのでしょうね。

 

絶対お勧めです。

 

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I don't knowから見る英語圏の方の物事に対する考え方

I don't know 

この国で働き始めたとき、仕事上で周りのスタッフがI don't knowというフレーズを頻繁に言うのを見て、変な違和感を感じた事があります。「そんな無責任に知らないと答えて良いの?」とさえ思った事もあります。

僕の中でI don't knowは日本語で表現する「知らない」という意味であり、どうしてもマイナスのイメージしか有りませんでした。

ただ、この言葉の持つ本来の意味合いが少しずつニュアンスで分かるようになり、彼らの合理性と責任に関する考え方を肌で感じる事が出きた時、僕の中でこの言葉はお気に入りの一つになったのです。

I don't know とは、質問が回答者の専門外であるという事に対する回答の一番率直な表現方法であるようです。彼らはこの言葉を使う事で、「質問者が専門外である自分に無駄な時間を費やすことが無いように、」という配慮をしている、という好意的な部分さえ含んでいます。

以前、日本人の善意を揶揄する記事を雑誌で読んだことがあります。それは日本を訪れた外国人が道に迷った時、大多数の日本人が親切に助けたにも関わらず、残念ながら、その殆どが間違っていた為、結果的にもの凄く目的地に着くまで時間が掛かってしまったという物でした。これは、「もし 一言I don't knowと言ってくれたら、お互いに無駄な時間を費やす事無く、自分は知っている人間を直ぐ探す事が出来たのに・・」、という教訓を含んでいるようです。

そのため、I don't knowという表現はニュートラルであり、その言葉だけでは良くも悪くも取られる事は基本的にありません。

ただ、残念ながら、それを逆手に I don't know を自分の権利の様に連呼している方が居るのも事実。

結果的に相手の為になる I don't knowを言いたいものです。

 

 

 

 

 

 

Specialist とGeneralist

日本で仕事をしていたときに、僕が考える使える人材の条件の一つとして、

  • 一つの事に深く精通をしていなくても良いので、何でもそつなくこなす事ができる人

というのがありました。実際資格などを所有しているかどうかよりも、一緒に仕事をしていて、感心をさせられる人材というのは、全体的な仕事における自分の役割を出来るだけ早く理解をし自分を合わせる事が出来る人。それは流れを俯瞰的に見ることができて、自分の立ち位置を常に意識している人です。そういう適正を持った人というのは、基本的に飲み込みや要領が良く、2,3割説明をするだけで、僕がイメージする7,8割ほどで行ってくれます。ただ、その為、必要な人材の条件に合った仕事の定義をする時に大変困る事も事実でした。

この考え方は結構日本においては殆どの方が共感してくれます。しかし、ここオーストラリアでは全く異なるという事を痛感させられます。

この国で働いている労働者は皆、広義の意味で基本的に何かしらのSpecialistのカテゴリーに組み込まれるような気がします。そのため、Specialistとして基本的な役割と業務範囲を仕事の募集要項に定義するのですが、それに沿った仕事以外での事をやってもらう時は相当苦労します。「このような仕事は仕事の募集時にあった業務範囲内ではない」などの不平は当たり前の権利のように上がってきます。要するに「自分はそのSpecialistでは無い=専門ではない」という考えです。そこで、指定業務との関連性などを説明したりする必要が出てきます。

そのため、仕事において自分らで与えられた業務範囲を自分の杓子で解釈し、遂行する現地の人が多い様に見受けられます。虫食いのように仕事を自分の好きなようにかじっていくのです。当たり前ですが、これをされてしまうと業務上カバーしきれない穴が出来ます。これらはマネージメントが見落としてしまうことが多く、結果放置される事になります。これらは問題が大きく表面化してから渋々、マネージメントが別のリソースを手配をすることで対応することが多いようです。

こういった事を垣間見る度に、僕は日本人のあの細かさ(Generalist的要素というのでしょうか?)を懐かしく思うのです。いやいや、やはり阿吽ですよ、阿吽。

 

 

 

 

 

物事は起こってから対処するべき?

現地の人間と長い間一緒に仕事をしていると、自分との考え方の違いに驚かされる事が多いような気がします。

最近特に感じている事は潜在リスクに対するとらえ方です。

日本に居た時は常に決断に伴うリスクと可能性を先に(フレームワーク等を活用しながら、)考えるようしていました。僕の中でこの思考方法は有効だと思っていたのですが、働き始めて2年、殆ど受け入れてもらった事がありません。 

なぜなら彼らの大多数の基本的思考として以下があるからだと思います。

 

「物事は起こってから対処するべき。」

 

潜在的なリスクを予想し、物事が起こる前にリスク要因を洗い出すという、僕が今まで行ってきた手法は、大抵のケースにおいて、ネガティブな印象を相手に与える場合が多い様です。

スモールビジネスが大変多い、この地域ではビジネスオーナーからの相談を受ける機会が比較的多いのですが、ビジネス上の話(例えば実現可能のアドバイスを求められた時など)だけでは無くプライベートでも大多数がこの考え方を基本路線としている人が多いようです。

そのため、大変ポジティブで良いのですが、結果的にそれによってプロジェクトがコストオーバーになったりする場合が多いのです。ただ、頓挫をしなければ、皆結果オーライで、もの凄くポジティブに捉えます。初めは「それ見たことか!」なんて思うのですが、それが実は大変羨ましくもあります。

僕もそんな思考法を前向きに一つの形として捉えるようになり、物事は起こってから・・・、なんて考えてみたりします。